「人間関係は、量よりも質だ」という発想がまず浮かんだが、それは一昔前の自分の古い考えである。その考えによって遠ざけてきた人がたくさんいたように思う。自分自身の人間的な幅と了見を狭くしていた。
・人間関係=他人を薬とするか毒とするかは、自分次第。他人自体が薬である、毒である、という考え自体は基本的には間違っている。
・薬、栄養を与えられる側の人間であれ
・相手の存在自体を薬か毒か、つまり関わってメリットがあるかとか、損するか得するか、自分が幸せになるかとか不幸になるかとかは、ジャッジすべきじゃない。
人生、人格に善悪もなければ、正解もない。相手の存在自体の善悪をジャッジすることで、自分自身をもジャッジすることになり、自分の性格や過去、感情までも否定することになり、自分を許せなくなる。
結果、自己肯定感も低くなるし、生きづらくもなる。他人を許し、他人を理解し、信頼し合うには、この善悪を容易に判断しない「受容」の気持ちが大切だと思う。
「受容」ができないと、相手の理解者になることができず、信頼を欠き、反発すら招いて、人を動かせなくなるどころか、自分もやりづらく、生きづらくなる。
自分自身の本能的な拒否反応が、理性による受容に勝ってしまうと、感情的な行動や言動につながり、相手を傷つけ、自分も苦しめることになる。拒否反応が本能的に起こりそうだと認知できた時には、「自分のキャパ不足。受容力不足。」と捉えることができる。
だから、基本的には、「人の好き嫌い」という概念自体も捨てるべきと思う。人の好き嫌いは、人の人格をジャッジしているだけでなく、自分と照らし合わせた結果、妬みや自己投影という自分の弱みから逃避する思考に繋がってしまう。
逆に、受容力が高まれば、バイアスを排除してフラットな目でいろんな人の選択・行動や性格、価値観を見ることができ、学びを得られる余裕が生まれる。自他を受容し、許すことで、お互いに生きやすくなるだけでなく、やがては理性的に落ち着いた精神状態になれ、物事を一面的にではなく、多角的に捉えることができる。
固定観念を疑い、世の中一般の価値尺度にとらわれず、自他ともに生きやすい精神状態を作りやすい。建設的でポジティブな行動を起こせる。そして、どんな人も自分にとっての薬や栄養と考えると、全人類から知恵と学びを得られる。そして、感謝ができる。
その人自身の善悪をジャッジするのではなく、あくまで「その人がその選択や行動をして、幸せになれるのか?」という観点に照らして、選択や行動をジャッジするべき。
加えて、その人の「価値観」に根ざしている選択や行動なのか、というところにもフォーカスを当ててみる。価値観に反する選択や行動ならば、その人は幸せになれないはずだし、自分を許せなくなり後悔するはずなので、正してあげる。そして、価値観に沿っていても、その人の長い目で見た欲求や目標や夢の実現から遠ざかるような選択や行動であるならば、それも正してあげるべき。
まず、自分のことは自分自身で幸せにするべき。他人に幸せにしてもらおう、という気持ちは必要ない。これができれば、他人に依存することもなくなり、他人に薬、栄養を与えようっていう気持ちの余裕が生まれる。
プライベート、仕事、家族、恋愛、あらゆる人間関係でこのスタンスは崩さない。場面でこのスタンスに境界線を設ける必要はなく、むしろ設けるべきでもない。自分から人に興味を持ち、人を好きになこと。好きになってもらおうという気持ちよりも上位にこの考えを持ちたい。自分が持っている承認欲求を、相手の承認に移し替えてあげるイメージ。
自分の承認はいらないので、相手のためなら嫌われることも怖くなくなる。そもそも自分は自己承認できているから。相手の欲求や価値観は尊重しながら、それが相手の望む幸せから遠ざかるなら、それを修正してあげる。次第に与えられる側の人間になって、自分のところに人も集まってくるのではないかと思う。
逆に、奪ってくる側、テイカーに対しては、どう関わっていく?世の中には、自分にベクトルが向いており、ひどくなると利己的で他人を利用することが先行している人間も多くいる。
彼、彼女らから学べるものはある。これは上記の通り。奪われないために、自分自身の強さ、守備力を鍛える。自我を保つ。自分が奪われる側にどうしてもなりそうなら、一旦は距離を置いて自分を守る。
自我を保てれば、そういった人間にも何かしらを与えて、生きづらい人間を生きやすくすることもできる。
自他同一精神で人間と向き合っていく。「自分が楽しい」と共に、「相手も自分といて幸せ」という状態を共存させていく。持つべきは常に「サービス精神」。
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